最近、考えている事がある。それは「漠然とした指示は無駄に相手を混乱させ、具体的指示はその無駄を省く」みたいな感じだ。最近良く聞く脳科学的な「脳は否定形を認識出来ない」にも通じるものがあるのかも知れない。
先ずはこの例から書いてみる。
「狙いを定め大砲を打ちました。大砲は標的から大きく右に外れ落ちました。次、どうする?」
と質問されたらなんと答えられるだろうか?
質問は「これを考えてみよ」と言う指示だ。
残念ながらこの答えは制限が無い事ため無限に考えられる。
「そのままもう一回撃つ」では「なんでだよ?」と言われるだろうが、「急いで次を打つ準備をする」は否定しにくい。「落下地点を正確に計測する」「要員を交代する」「別の大砲から撃つ」「別の兵器を使う」「逃げる」「打ち合わせをする」「休憩する」「SNSに投稿する」「ビートに抱かれる」・・・。質問者はヤキモキするだろう。私なんかは「そもそも距離は合ってたの?」と言いたくなるし、「大砲みたいな軍備は全くの無駄であり、そんなものが世界の貧困をウンヌン」とも言いたくなる。
「狙いを大きく左に振ってもう一度撃ち、その2回の落下地点のズレから標的に当たる向きを計算するんだよ。」と質問者は早く言いたいがなかなかこれを言うタイミングが訪れず、ついには「お前はアホだ」が先に出る。しかし、実はこのような状況に陥ったのは質問が悪かったと私は考える。「質問者がアホだ」あ、言ってしまった。もともとの質問を見ると、「次、どうする?」としか言ってないのでこうなるのだと。
もしこれが「なるべく少ない試行回数で大砲を標的に当てるために、次出来る事は何か?」であれば、どうだろうか?回答者は素早く「狙いを左にちょこっとズラすのではなくて、”左にガバッと大きくズラす”方が計測で出る数字は大きくハッキリとした数字が出て計算がしやすく、その次で当たる角度を算出がしやすい。」と答えられるだろう。質問者も「お前は1聞いたら10を理解する奴だ」と満面の笑みで言える。
日本の官僚みたいな忖度人間であれば、先の質問で「マスコミに標的に当たったと言わせる」みたいな大正解を叩き出す事も出来るだろうが、通常の下級生活をしている民には自由がゆえに雲を掴むような話であり、不可能である。いや、これはこれで今回言いたい事とは違う。が、実際世の中ではこんな事が起こりまくっている。親が子供にする指示なんかこれの連発に間違いない。子供は何をどうしていいか分からない決まっているし、大人でも分からないだろう。それは、条件が定まっていないからだ。条件を補うのが常識や社会通念や環境文化風習、宗教だったりするのかも知れないが、一方で多様性を認めようとか言っておきながらこれに期待するのは矛盾ではないだろうか。矛盾だ。ご都合主義者め!そもそも質問者がその条件を提供していれば済んだものを、そうしなかったがために相手を混乱させたあげく「お前は社会経験が足りない」みたいな「それはお前の事だろう」的な(略)。
質問者は「こいつには考える力が無い」と言う前に「自分の質問には考えられる材料が揃っていただろうか?」と考えてみて欲しい。判断材料の足りない質問になっている事の方が通常の会話では当たり前ではないだろうか?ではブレインストーミング的な問いかけであったかのように落とし込んでは何が問題あるのか?次に問題を投げかけた時に相手から「この人の質問は要注意だ、人をバカにしたいだけの人だから」と警戒される事も無くなるだろう。
何を言ってるのか明確でない、分からない事を言っている本人もそれに疲れると私は思う。親が子供に言う「早くしなさい」「ダメー!」なども同じだろう。丸暗記が出来る人もいるが、応用場面に当たった時にはどうなるだろうか?「彼は落とし穴と言う落とし穴に全部落ちるタイプ」と呼ばれる事になりかねない。
「当たり前だろう」と言うような事もで明確に提示されないと分からない事はあるものだ。特に職場内なんてそうだ。それぞれで違う最適化が行われている。それを明文化する事は誰にとっても過ごしやすさを提供する事になるのではないだろうか?
ルールを破りたいだけの犯罪常習者にとっては居心地が悪くなるであろうし、ダブルメリットでは無いだろうか。