映画「英国王のスピーチ」に勇気付けられた

「英国王のスピーチ」はフェイスなんとかのCMキャンペーン映画「ソーシャルなんとか」をおさえ、アカデミー賞を勝ち取った。
私はその時初めて「英国王のスピーチ」と言うタイトルを聞いた。
そして、気になるその映画が金沢のミニシアターシネモンドでの上映が予定されているのを確認し、観たいと思っていた。
この休みに思い立ってふと情報を見てみると、「英国王のスピーチ」はたくさんの受賞を受けてか、近くのシネマコンプレックスでも上映されていた。
そのレイトで狙って夫婦で「英国王のスピーチ」を観て来た。
3.11の地震があってから私は心が病んでた。
情報を見れば見るほど絶望的で救いが無く感じていた。
また陰謀めいた真偽不明の事が書かれた記事もたくさん目に飛び込み、
それがまさしくこの世の理を示す本当のことの様に思えた。
そこにきて「英国王のスピーチ」は素晴らしかった。
「ソーシャルなんとか」は完全にキャンペーン映画だったが、
これはそうではないと感じられた。
「英国王のスピーチ」がヒットして利益を得るのは誰か?私にはパッと答えられない。
そこが良かった。
そして、「大予算ハリウッド全米No.1系映画」や
最近の日本映画にある「努力万歳系」に良くある浪花節でもなかった。
そもそもがこんな流れでは無かった。
 敵orピンチ→トレーニングor友情orは団結or努力or頓智or逃避or運命or血脈→勝利or克服or解決
じゃぁこの映画は何を伝えようとしているのだろうか?
「英国王のスピーチ」は、日本には王はいないけど天皇がいるから、日本人にとってシミる映画なのかも知れない。
でも、その点だけでは無い。
そして、今の私にとってこの映画は多大な意味があった。
以下ネタバレ含む。


英国王のスピーチには、英国王が何人も出てくる。
王は生まれた時から王ではなく、王に「なる」のだと言う事。
主人公はストーリーの半ばに王となる。
主人公の娘は幼くてもかなり「王」っぽい。
そしてかつての王も老いに勝て無い。
主人公の兄は自分は王でないと思い、王を退く。
人は何かになれると言う事。
そしてなれる姿は理想形ではなくて、
自分自身の到達点であると言う事。
つまり「なるようにしかならない」と言う事。
満点ではなくて及第点には努力で辿り着けると。
またコントロール不可能の事態があり、未来は予測出来ない事。
ラストの字幕で補足される内容は、ストーリー中に主人公が求めた事だったろうか?まさか!
努力が必ず報われる映画ばかりの中で、
「英国王のスピーチ」は部分的にしか努力は報われない。
だいたいそれも予告編を見た時点で予測がつく。
これがまた私には素晴らしく光って観えた。
「努力は必ずしも報われないし、不可測な事態がおとずれる」
ラストのクライマックスでも、1つの個人的な困難は乗り越えても、
国はとんでもない一大事に見舞われている。
スカッとするようで、実はスカッとしないラストだ。
しかし、そんな映画が受賞しまくっている事実。
内容ゼロのFaceなんとか宣伝大予算映画は、これに敗れた。
この世はまだ捨てたものでない!
CMよりも内容を伝えようと思う人がまだたくさんいるのだと私は認識した。
このご時世「英国王のスピーチ」は素晴らしくマッチしていた。
ダメダメな浪花節が蔓延している中で、現実を見事に映し出している映画のひとつだと私は感じた。
この世はまだこんな面白い映画が観れると安心した。
私にとってはそんなこんなで非常に勇気付けられた作品だった。
でも他の人から観たら、単なる低予算映画で浪花節かも!?

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