マスクが売り切れと聞いただけで、私は疑問を感じていた。
トイレットペーパーが買い溜めされているとは、私の理解を超えていた。
誰もこの事態を「チューリップバブル」と呼ばないのは何故なのだろう?
正確に当て嵌まらないからだろうか?私には分からない。
それはともかく、マスクは本来の価値以上に評価されていると私は感じている。
ウイルス感染を防ぐだとか、私はこれについてはごく僅かにしか効果が無いとしか信じていないが、「まともな大の大人である」と言うパフォーマンスには役に立つだろう。
私はこのご時世でも可能な範囲でマスクを着けずにいる。
「これが非常識に見える人もいるらしい」と言うと当たり前の言い方なので、私の採用している「自分が気を付けている事を気を付けていない人を見たら腹が立つ」論法で考えてみたい。
ご時世を意識してマスクを着けている人が、このご時世に関わらず付けていない人を見た時、腹が立つ
こんな感じだろうか?
私は常識やら社会通念やら世間体やら滅私奉公やら無意味なパフォーマンスの好きなタイプで無い。
「特別な環境で正しい方法でマスクしても効果は僅か」と言う話の方をむしろ信じている。
ならマスクは一体何のために?
「まともな大の大人」である事を示す為の他に何かあるだろうか?
花粉症ぐらいしか思い当たらない。
私がマスクをして「まともな大の大人ですよ」とアピールして、他の場面でもそれを維持出来るか?と言われれば、絶対にそうではない。
私は場面場面で毎回、このマスクの件と同じレベルで考えを巡らさないと「まともな大の大人」の判断を知ることは出来ない。
私には考えずにすいすいと「まともな大の大人」と同じ判断・行動が出来ないのだ。
私の中には大の大人が常識として心得ている社会通念が無いのだ。
常識を目にする場面に当たった時も、それがその場面だけの物なのかそうでなく常になのか、さらに根底の常識・社会通念を私は持って無いので、判断出来ず「この場面ではこう」と限定的にだけ取り入れる。
私がエネルギーに満ち溢れ労力が余っているから、そう出来るのかも知れない。
ザックリ、こういった場面では全部こうしときゃいい、みたいな事が出来ない。
そして考え込むクセもあるし、科学的判断を好む。
今日、そんな私がマスクを着けていた事こそ、エイプリルフールネタだったんじゃないかとさえ思う。
マスクで儲かる上級国民はそんなにもいなかったのか、各戸に配る枚数はたかだか2枚なのだとか。
これに「人をバカにしている」「他の国ではウンヌン」「2度と投票しない」と言うかも知れないが、これまでもずっとそうされて来た事を思い出して貰いたい。
私みたいに社会通念が身に付いて無くてもそう思うのだから、「まともな大の大人」はなおそうあって欲しいと思う。
#エイプリルフール