映画「ドーン オブ ザ デッド」(再)

前回、「ドーン オブ ザ デッド」なにがどう面白かったのか全然書かなかったので、前回の途中から再度挑戦。
「ドーン オブ ザ デッド」は正統派ゾンビ映画で、ゾンビ映画の本質を余す事無く観る人に伝えてきたと私は感じた。
ゾンビ映画はゾンビと言う特殊な存在を用いて、その独特な世界観が作り上げられている。私は、この特徴を1体のモンスターが出てくるタイプのホラーとは一線を画して考えている。モンスター的存在が1体または複数であっても、それが限りある数であれば、日常の秩序を乱すそのモンスター達を処理すればまた以前と変わり無い秩序が取り戻せると考えられる。しかし、ゾンビ映画の中でゾンビは、人間と比べ圧倒的多数である事が多い。時にはその数が把握できる数を超える事もあるし、ゾンビの存在範囲すら把握できない事もある。私はこれは、人間対ゾンビの比率で考えなくてはならない状況であると考えている。民主主義の多数決ではゾンビ側が有利なのである。多数決とかゾンビはよくわからんと思うが。ともかく、そこは人間とゾンビの共存を考慮しなくてはならない状況である。私はゾンビ映画の本質のひとつにこれが映し出されている事を挙げたいと思う。ゾンビ出現以前では必要の無かった”新しい秩序が要求された世界”がゾンビ映画にはあるのである。
またゾンビ自体は、特別な個性を持って描かれる事は少なく、行動は本能的で理性と言うものを持たない姿に描かれる。ゾンビの行動の目的は人間を捕らえて食う事の場合が多い。他の目的の映画は私にはあまり印象無いのだが、あっただろうか?また、映画によってゾンビの運動能力はさまざまで、ゆっくり歩くしか出来ない場合もあれば、猛ダッシュで走る場合もある。細かく言えば、ハシゴが上れない、階段が上れない、マンホールを認識出来ない、火が認識出来ない場合もあるし、超人的猛ダッシュで襲い掛かる、腕力も超人的、ベラベラ喋る場合もある。それはともかく、眠い。おっといけね。閑話休題、通常、ゾンビは人間の言う事を聞いてはくれない。ゾンビは本人の本能にだけ従い行動していて、大勢いても個々に行動していて、団結はありえない。これはゾンビ映画と言うかゾンビの特徴なのだが、このゾンビ達の行動を映像として映し出す点はゾンビ映画の特徴と言える。そして、ゾンビは人間に対して無慈悲な残虐行為を行うのが常だ。
ゾンビの発生原因も映画によって様々だが、多くの場合感染する特徴を持っている。ゾンビによって傷つけられた人間は死んだ状態にあっても、いくらかの時間を経るとゾンビとして行動しだす。そうして、ゾンビはその数を増やしていくのだが、数を増やすことは直接的なゾンビ達の目的ではないように見える。しかし、もしゾンビ自体の性質を考える上でこれは重要な性質である。映画の中でゾンビの存在理由が明らかな場合は少ないが、ゾンビをウイルス感染による物と考えれば、ゾンビ自体をウイルスの増殖媒体だと言える。その為の、ゾンビは種の繁栄を目的として人間を襲っているようにも見える。ただし、ゾンビの行動は人間から見て、到底許容し難いものなので、映画の中ではゾンビに感染したと確信した人間が自らを始末するシーンがある場合がある。これはゾンビに対する強烈な否定である。人間が、人間としてゾンビに脅かされて生きるよりも、ゾンビとして生きる事を選択するシーンがある映画は少ない、と言うか私には今ぱっと思い浮かばない。ゾンビは人間を害するものであって、いないに越したことの無い存在であることがゾンビ映画の中での共通にある本質と言えよう。
ここまで、「ドーン オブ ザ デッド」ではなくて一般的な「ゾンビ映画」について書いてきた。「ドーン オブ ザ デッド」はどうかと言えば、これらの本質はすべて明確に映画の中で描かれている。そう言った意味で、「ドーン オブ ザ デッド」は正統派ゾンビ映画であると私は言いたい。
以下続きにはネタバレ含むので注意だと考えると思う。


「ドーン オブ ザ デッド」では、ゾンビの発生原因ははっきりせず、ある時を境に突然各地にゾンビが現れ、感染範囲を広げていった。ゾンビは知性的には愚鈍だが、運動能力は素晴らしく超人的パワーで襲い掛かってきて、人間を捕らえ食らい付く。この映画では誰かがゾンビに襲われ骨までしゃぶられるシーンは無いので、ゾンビがどの段階まで人間を食べるのかはいまいち不明だ。主人公のダンナが、首筋にゾンビに食いつかれたあとは、見向きもされなかった事を思うと、死んでしまった肉体にはゾンビ的には興味が無くなるのかも。
主人公はそんな恐ろしいゾンビの群れを逃れ、道中出会った人間とショッピングモールに逃げ込む。そこでは、ゾンビから隔離された生活が一応は出来たが、一歩外に出るとゾンビに取り巻かれていた。あまり書くと本当にラストまで書きそうだったので、もう1点だけ。主人公達はショッピングモールを抜け出し、ゾンビのいない場所を探しに飛び出すのだが、、、。ちなみに私も実際、ゾンビに取り巻かれ暮らす事になれば、きっともっとマシな場所を求めて飛び出すと思う。そして、その場所が見つからなくても意識を失う瞬間までゾンビの数を減らす事に専念するだろう。で、自分がゾンビになった後の事は考えないだろう。
実は、ゾンビ映画の映し出す結末には3パターンあって、1つは「ゾンビがいない場所は見つかりませんでした」、もう1つは「ゾンビをいなくしました/いなくなりました(ゾンビの活動が停止しました)」、またさらに「ゾンビとの共存が確立しました」がある。ゾンビ映画の結末は99%このパターンに当てはまると私は考えているのだがどうだろう?「ドーン オブ ザ デッド」でもこれに漏れず、この3パターンの中のひとつに行き着く。
しかし、この3パターンで一番、安心をもたらすエンドはどれだろうか?1はゾンビ映画なので仕方が無いエンドとも言えるが、人類滅亡を描いた作品になってしまう。これでは、見る側は救われないが、映画としては強烈にそのテーマを打ち出している作品になる。「ゾンビからは決して逃れられない」全く、すごいパンチ力で、観た人にその事を印象付ける。
2は、そう言う意味では救われるエンドである。もともといなかったゾンビがまたいなくなるので、世界は以前の状態に戻る。しかし、また何かのきっかけでゾンビが現れる可能性は否定出来ない。ゾンビのおぞましい記憶は早く忘れる事を望まれるが、次にまた現れた時のためにも忘れてはいけない、みたいなエンドになる。私が書くと分かりにくいが「バタリアン」や、「デモンズ」なんかがこれに当たる。救いがある分、娯楽性は増すようには思う。
3は一番ショッキングで、このラストシーンを観ると、ゾンビがかわいそうになる場合がある。しかし、このエンドも1と同様に「ゾンビからは逃れられない」があり、そこに「人間が工夫すれば、なんとか生き延びる事も出来る」と言った内容になる。これが分かりやすい作品名も挙げたいが、内容が良すぎるのでここでネタバレしたくないので挙げない。とりあえず、「死霊のえじき(デイ オブ ザ リビングデッドだっけか?)」の会話の中にもこれが出てくる。
個人的には、”ゾンビ”はコントロールの効かない存在で、どうしょうもなく存在するパターンが一番好きだ。で、ゾンビいなくなる事もないと言うのが、私にしてみると一番歯切れが良い。そんな私に「ドーン オブ ザ デッド」は物凄く訴えかけてきた。さらに、この中でゾンビが子供を生むシーンがあった。子供は人間なのかゾンビなのか、ドキドキで見ていたが、赤ん坊は私の納得のいく形だった。全く「ドーン オブ ザ デッド」は期待をまるで裏切らないゾンビ映画だった。ただ、ゾンビ映画に残虐シーンのみを要求する人にとっては、多少食い足りないものかも知れない。

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